これは、何か一つの出来事について書いているわけではなく、複数の出来事と、自分がずっと考えていたことがリンクした内容だということを前置きしておく。
精神的な病気について思うことがある。
とくに、精神的な病気になった人が「病んでいる」「死にたい」と不特定多数に向けて表明したり、「病んでいるから仕方ない、許してくれ」と周囲に言ったりすることについては、昔から賛否が分かれると思う。
あたし自身、ごく身近な人たちを含めた精神的な病気と長く向き合ってきた。「死にたい」「病んでるねん」と吐露され相談に乗るなどの経験も昔からある。
だから、ずーーーーーっと、精神的な病気と社会との折り合いの付け方を考えてきた。
そんで、今のところ出た答えはこう。
「ごく親しい人以外に主張すると、損するからやめといた方がええで。」
正直問題、理解されない。99%理解されない。
精神的やまいは、患った人にしかわからなくて想像がしづらく、マイナスなイメージがついてしまっている。
そ〜っとやさしく距離をとられたり、壁を作られたり、好奇の目で見られたり、レッテルを貼られたりする可能性が断然高い。
そういう現状を変えていく意思のある社会派の方は、活動していけばいいと思うけど、そうじゃないならやめといたほうがええで。
それと、病んでる人って悲劇のヒロインになりやすい傾向がある。
無自覚のうちに「自分が世界の中心で、優先的に配慮されるべき」と思ってしまっている。(少なくともあたしにはそう見える)
- 病気だから迷惑かけても仕方ない → だから謝らない
- 病気のぼくを責めるなんておかしい → 周りのせいにする
でも実際のところ、社会は自分と同じように考え、生活している人たちで成り立っていて、「病んでる表明」をしていない人たちにも、それぞれ悩みや苦労がある。
自分が世界の中心だと思い込むことで、その周り(社会)が見えなくなってしまう。
この視野の狭さやメタ認知の弱さこそが、病理の所以なのかもしれない。
高熱が出てる時に、難しいことを考えられない状況にも例えられるかもしれない。
ただ、それでは社会でうまくやっていけるわけがない。折り合いがつかない。
本人が納得しているならそのままでいい。
でも、「どうせ自分の居場所なんてこの世界にはない😒(世の中が私たちを理解しない!)」みたいに受け取られると、周囲の人間は「もう触らんとこ……」ってなるよ。
難しいかもしれんけど、なるべく俯瞰していこうや。
自分がしんどいからこそ、「もしかしたら、あの人もしんどいかもしれん」と想像してみようや。
自分に事情があるからこそ、「もしかしたら、あの人にも事情があるかもしれん」と想像してみようや。
それだけで、だいぶ変わると思うねん。
いつも配慮してもらってる側ならとくに、「死にたい」って言われる側の負担や、「迷惑かけられたけど、病んでる人やし責めづらい。。世間的に自分が悪者みたいになるし。。」というナンとも言えない理不尽な気持ちに、たまには配慮してもいいんじゃない?
「病気」って言ったもの勝ち、無敵の人みたいになるのって、自分たちも望んでないんじゃない?
とまあ、ここで静かにぼやきたくなった。
ただ同時に、ごく親しい人の「病んでます」「死にたいです」というSOSは、しっかりキャッチできる社会であってほしいとも思う。
誰にも吐き出せない世の中は、終わってる。
あたしは、親しい友人に限っては、取り繕われるよりも、気持ちを話してくれる方が安心できるから良いと思ってる。
その傾聴の重みくらい、友達のよしみとして背負いたい。
あたしたちは他者とともにこの社会で生きているのだから、配慮し合って生きていくしかない。